安保入道道譚 「分倍河原の戦い」 安保氏の合戦(2)

安保入道道譚 「分倍河原の戦い」 梅松論
元弘三年(1333年)5月、武蔵国分倍河原(府中市多摩川)で後醍醐天皇対鎌倉幕府(新田義貞軍対北条泰家軍) 新田義貞の鎌倉攻撃を阻止しようと、鎌倉幕府は北条泰家の大軍を分倍・関戸の、多摩川渡河点に配備させる。安保左衛門入道道潭(泰実ヵ)は関戸の最前線で討死した。
新田義貞軍の勝利に終わる。(五月十五日~十六日の戦い)
(以下、梅松論上より)

五月中旬に上野国より新田左衛門佐義貞、君の味方として、當国世良田に討出て陣を張る。(中略)義貞多勢を引率して武蔵国に攻入る間、當国の軍勢も、悉く従付きける程に、五月十四日、高時の弟左近大夫将監入道恵性を大将として武蔵国に発向す。(中略)翌日十五日分配、關戸河原にて終日戰ひけるに、命を落とし疵を蒙る者、幾千萬といふ數を知らず。中にも親衛禪門の宗徒の者共、安保左衛門入道道鐔粟田横溝原、最前討死しける間、鎌倉勢悉く引退く所、即ち大勢攻上る間、鎌倉中の騒ぎ、唯今敵の乱入りたらんも斯くやとぞ覚えし。

※ 太平記の分倍河原の戦いでは安保入道道堪⑴が鎌倉軍で出ている。
  (以下、太平記巻十より、安保入道道堪)

三浦大多和合戦意見事 太平記巻十 元弘三年

五月十六日の寅刻に、三浦四万余騎が真前に進んで、分陪河原へ押寄る。敵の陣近く成まで態と旗の手をも不下、時の声をも不挙けり。(中略)大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。

⑴ 「安保氏の研究」伊藤一美氏著では、道堪はおそらく泰実の二男政泰経泰系に、あたるのであろうか。とある。

      

  

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