安保光泰 「中先代の乱」 安保氏の合戦(3)

安保光泰 「中先代の乱」 梅松論
建武二年(1335年)7月、北条高時の遺児、時行が諏訪頼重らに擁立され反乱し、足利直義-尊氏軍に安保光泰が従い、足利軍が勝利した。しかし、安保入道道譚の子は敵方となって、参加していたのです。
(以下、梅松論上より)

  かくて建武元年も暮れければ、同二年(1335)、天下弥(いよいよ)穏やかならず、同年七月の初め、信濃国諏訪の上の宮の祝(はふり)・安芸守時継(=諏訪氏)が父三河入道照雲(=頼重)・滋野の一族等、高時の次男、勝寿丸を相摸次郎(=北条時行)と号しけるを大将として国中をなびかすよし、守護小笠原信濃守貞宗京都へ馳せ申す間、
  御評定にいはく、「凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出づべきか。(中略)
八月二日京を御出立あり。(中略)三河の矢作に御着ありて京都・鎌倉の両大将(=尊氏・直義)御対面あり。今當所を立ちて関東に御下向あるべきところに、先代方の勢、遠江の橋本を要害に構へて相支ふる間、先陣の軍士阿保丹後守、入海(=浜名湖)を渡して合戦を致し、敵を追ひ散らしてその身疵を蒙る間、
  御感のあまりにその賞として家督安保左衛門入道道潭(=北条方、既出)が跡⑴を拝領せしむ。これを見る輩、命を捨てんことを忘れてぞ勇み戦ふ。
  當所の合戦を初めとして同国佐夜の中山・駿河の高橋縄手、箱根山、相摸川、片瀬川より鎌倉に至る迄、敵に足を溜め(=止め)させず、七ヶ度の戦ひに
討勝ちて、八月十九日、鎌倉へ攻入り給ふとき、
  諏訪の祝(はふり)父子、安保次郎左衛門入道道潭が子自害す。相残る輩或は降参し或は責め落とさる。
  去程に七月の末より八月十九日到迄廿日余、彼相摸次郎(=北条時行)再び父祖の旧里に立帰るといへども、いく程もなくして没落しけるぞ哀れなる。
(中略) 之を中先代とも、二十日先代とも申すなり。

⑴ 安保丹後守光泰は先陣として戦功をあげ、足利尊氏から惣領家の、「安保左衛門入道道潭が跡」を拝領した。

      

児玉の四季

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