五十子の戦い-五十子陣 本庄信明・西堂松陰

五十子の戦い(いかっこのたたかい)
武蔵国五十子(埼玉県本庄市五十子)周辺で、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に行われた合戦。古河公方足利成氏と関東管領上杉氏一族の間での戦い。両者の戦いは享徳3年(1455年)に足利成氏が、上杉憲忠を暗殺したことから始まった。この時の本庄、北堀、五十子辺りの領主は本庄信明(宮内少輔)で山内上杉に属した。
五十子陣(いかっこじん)
上杉房顕(関東管領)が1457年頃に、足利成氏(古河公方)との対決に際して、東五十子の城跡付近から西五十子まで、女堀川と小山川(見馴川)のV字間に五十子陣が築かれた。城跡には本陣が、西五十子にも、伝承によると、戦い時には御陣場が築かれていたという。長禄3年(1459年) 武蔵太田庄の戦いで、上杉軍は大敗した。(上杉教房は戦死)寛正4年(1463年)、山内上杉家の家宰、長尾景仲が病没。寛正7年(1466年)、上杉房顕が五十子にて陣没(32才)。上杉房定の次男、上杉顕定が後を継ぐ。文明5年(1473年)、山内上杉家の家宰、長尾景信が五十子で陣没。文明6年(1474年)、太田道灌が江戸城を出て、五十子へ参陣。文明8年(1476年)、長尾景春が鉢形城を拠点に反旗を翻した。
文明9年(1477年)正月、長尾景春は再度五十子陣を襲撃して、上杉勢を東上野に追い払い、五十子陣は解体した。文明10年(1478年)、太田道灌は鉢形城を襲撃し、長尾景春を追放した。(長尾景春の乱)

五十子陣推定図-本庄歴史缶より

東本庄館跡周辺-東本庄稲荷神社

    ※参考資料 本庄市史通史編 武蔵武士 本庄市の武蔵武士 本庄歴史缶     

〇本庄信明(ほんじょうのぶあき) 生年不詳-延徳2年(1490年)
武蔵国児玉郡北堀の東本庄(現在の埼玉県本庄市北堀)の地に東本庄館を築いた室町時代中期の武将。東本庄館初代館主。官途名は宮内少輔(くないしょうゆ)。安養院を創立(安養院由緒)。戒名は開基本庄宮内少輔安養院殿瑞室和光大居士。本庄宮内少輔信明は、北堀、栗崎、東富田、五十子、本庄、傍示堂を所領していた武将で、関東管領山内上杉家に属し、古河公方(足利家)と対立した。五十子陣が築かれた後に小山川西岸の北堀地内の東本庄に館を構えた。信明は館の守護神として稲荷神社を勧請していて、現在では神社だけがある。児玉党本宗家5代目である庄太郎家長の四男、本庄四郎左衛門尉時家の末裔と考えられるが、詳しい系譜はまだ分かっていない為、断定はできない。子には本庄為明。 (Wikipediaより)
〇西堂松陰(さいどうしょういん) (1436年~1518年)
永享8年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)長楽寺十世をつとめ、晩年武蔵(むさし)榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)五十子、増国寺を中興。新田岩松家純家の陣僧をつとめ、「松陰私語」(五十子記)は永正6年(1509)家純(いえずみ)以後4代や執事の横瀬家の事跡記録を書いたもの。永正15年6月15日死去。83歳。墓所は増国寺、号は真西堂松陰軒。

            

児玉の四季

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