久米逸淵-武州八幡山(本庄市)生まれの俳人

久米逸淵・(くめ・いつえん)は寛政2年(1790)に武州八幡山(本庄市児玉町)の久米家に生まれる。名は 久米清一郎・清右衛門。久米一族の祖は児玉時国・久米太郎右衛門。俳号の初めは可布で、後に逸淵になる。若くして、毛呂山の川村碩布(春秋庵)に入門、後に上州高崎に可布庵を開き、業俳となる。文政7年(1824)に春秋庵5世を継ぐ(35才)。文政10年(1827)に逸淵は信濃に小林一茶を訪ねる(一茶65才)。 天保9年(1838)、逸淵は江戸の木挽町に開庵し、活動範囲を拡げる(49才)。嘉永5年(1852)に一茶の「おらが春」の序文を叙している。安政3年(1856)に本庄に引退する。安政5年(1858)には念願だった鉄製の芭蕉句碑を八幡山に建立する(69才)。安政7年(1860)に逸淵は八幡山に移住する(71才)。文久元年7月(1861)に逸淵、没す(72才)。(俳人 久米逸淵 しの木弘明著より)

 

芭蕉句碑-児玉八幡神社

芭蕉句碑-児玉八幡神社


芭蕉句碑-児玉八幡神社

「山路来て 何やらゆかし すみれ草」

久米逸淵が安政5年に建立した芭蕉句碑は鉄製で当時では相当なものでした。鉄製句碑であったことが、この年に刊行された、「すみれ塚集」で証明されるそうです。
昭和18年頃、戦争で供出されてしまい、児玉八幡神社に現在あるのは、地元では勿体ないということで建立された二代目石碑だそうです。逸淵が天保2年(1831)、42才の頃に発願してから25年余での大願成就となりました。



         久米逸淵は業俳になると高崎、江戸、本庄と移居して最後は生地の八幡山に戻っている。



久米逸淵墓と椿塚

久米逸淵は安政6年(1859)に自身の墓を建立している。玉蓮寺の墓碑には、児玉逸淵と刻まれている。

墓碑の前に椿塚があります。
    「鶯や 持って生まれし 春の声」 
文久2年(1862)に門人たちが建立したと思われます。



     

久米逸淵墓と椿塚

久米逸淵墓と椿塚

         久米逸淵が小林一茶に信濃で会ってから、「おらが春」の序文を書いた時は25年が経過していた。

児玉の四季

                                                                                                         
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