雉岡城跡(八幡山城)-本庄市(児玉町−城山公園)

雉岡城は本庄市児玉町の西北部にあり、八高線児玉駅から約800mの直線上に位置する。中世(戦国時代)の寛正年間(1460〜1466)に山内上杉氏の居城として上杉顕定の命で夏目実基が築城する。応仁元年(1467)に夏目定基(1451〜1492)が城主となる。延徳3年(1491)年に八幡神社に社領を寄進する。定基の子で夏目定盛が二代目城主になる、天文15年(1546)の河越夜戦以後は上杉に勝利した北条氏の支配下となる。永禄4年(1561)の生野山合戦で越後上杉に北条氏が勝利すると、北条氏邦は家臣、横地左近を雉岡城の城代とした。天正18年(1590)に豊臣軍(前田利家・上杉景勝)の攻めで雉岡城は落城し、続いて北条氏の鉢形城も開城。徳川家康の関東入りにより、松平清宗・家清が1万石で入る。清宗没後は松平家清が城主となるが、慶長6年(1601)に関ケ原合戦の勲功で、三河国吉田へ3万石での転封となり、雉岡城は廃城となりました。その後は建物は壊され旗本、戸田重元(5千石)の知行地となり八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなる。(参考資料 「新編武蔵風土記稿」 「児玉町史」他)
 

雉岡城跡の桜

雉岡城跡の桜 

雉岡城跡−南三ノ郭

雉岡城跡−南三ノ郭

         雉岡城の南三ノ郭は高台で桜の満開時にはアーチのようで、見晴らしも良いです。

南二ノ郭土塁上の金毘羅神社

    南二ノ郭土塁上の金毘羅神社    

芭蕉の句碑−金毘羅下

   芭蕉の句碑−金毘羅下     

         「むざんやな、甲のしたの、きりぎりす」の芭蕉の句碑が当時を偲ばせる。

夜泣き石

    民話の由来と夜泣き石    

雉岡城の堀−南三ノ郭北側

    雉岡城の堀−南三ノ郭北側    

夜泣き石(親子石)−伝説 昔、殿様の夕餉(夕食)に針が入っており、怒った奥方は側女、お小夜の仕業だと思い、とりしらべもしないでお仕置き井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。その時お小夜のお腹には生まれるばかりの 赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後お城では、お乳がにじみ飲み水も池の水も白く濁り、夜になると、お小夜の泣き 声がどこからともなく聞こえてきたそうです。また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜 は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に奥方は、お小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの 石を祀り、女たちに慰めの言葉を、たやさぬようにと頼み髪を切って喪に服したと言い伝えられています。
       (児玉の民話より−児玉町説明板)

武蔵八幡山城絵図−国立国会図書館蔵

雉岡城跡・児玉地域の見どころマップ

         武蔵八幡山城の古城絵図は雉岡城の本丸周辺図で江戸時代中期〜末期に作成されています。

武蔵八幡山城−雉岡城周辺年表

                                                                                                          
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