庄太郎家長・庄小太郎頼家-武蔵国児玉党庄氏

庄太郎家長(しょう たろう いえなが)
庄家長は児玉党栗崎館2代館主。庄家弘の嫡子。現在の本庄市栗崎の出身で弟に庄弘高、庄忠家、庄高家、庄弘方がいる。家長には庄小太郎等、5人の子がいる。庄家長は寿永3年(1184年)2月源氏の源範頼軍で一の谷の戦いに参戦する。家長は平の朝昌を討取る。建久元年(1190年)11月7日の源頼朝の上洛で先陣随将13番に庄太郎の名前がある。(吾妻鏡)武功の恩賞として備中草壁荘(岡山県)の地頭職を与えられた。元久2年(1205年)に猿掛土塁を築き、初代城主となる。平安時代末期から鎌倉時代初期までの児玉党武将。生没年は未詳。
(以下は「吾妻鏡」より引用)      

建久元年(1190)十一月七日 吾妻鏡 頼朝上洛
11月7日 丁巳 雨降る、午の一刻晴に属く。その後風烈し
  二品御入洛。法皇密々御車を以て御覧す。見物の車轂を輾り河原に立つ。
申の刻、先陣花洛に入る。三條末を西行、河原を南行、六波羅に到らしめ給う。
  その行列、先ず貢金唐櫃一合
  次いで先陣
   畠山の次郎重忠(黒絲威の甲を着す。家子一人・郎等十人等これを相具す)
  次いで先陣の随兵(三騎これを列す。一騎別に張替持一騎、冑・腹巻・行騰。
          また小舎人童上髪、征箭を負い行騰を着す。各々前に在り。
          その外郎従を具せず)
  一番    大井の四郎太郎    太田の太郎      高田の太郎
  二番    山口の小七郎     熊谷の小次郎     小倉の野三
  三番    下河邊の四郎     渋谷の彌次郎     熊谷の又次郎
  四番    仙波の次郎      瀧野の小次郎     小越の四郎
  五番    小河の次郎      市の小七郎      中村の四郎
  六番    加治の次郎      勅使河原の次郎    大曽の四郎
  七番    平山の小太郎     樟田の小次郎     古郡の次郎
  八番    大井の四郎      高麗の太郎      鴨志田の十郎
  九番    馬場の次郎      八嶋の六郎      多加谷の小三郎
  十番    阿加田澤の小太郎   志村の小太郎     山口次郎兵衛の尉
  十一番   武の次郎       中村の七郎      中村の五郎
  十二番   都筑の三郎      小林の三郎      石河の六郎
  十三番   庄の太郎三郎     四方田の三郎     浅羽の小三郎
  十四番   岡崎の平四郎     塩谷の六郎      曽我の小太郎
  十五番   原小三郎       佐野の又太郎     相模豊田兵衛の尉
  十六番   阿保の六郎      河匂の三郎      河匂の七郎三郎
  十七番   坂田の三郎      春日の小次郎     阿佐美の太郎
  十八番   三尾谷の十郎     河原の小三郎     上野沼田の太郎
  十九番   金子の小太郎     駿河岡部の小次郎   吉香の小次郎
  二十番   小河の次郎      小宮の七郎      戸村の小三郎
  二十一番  土肥の次郎      佐貫の六郎      江戸の七郎
  二十二番  寺尾の太郎      中村の小太郎     熊谷の小太郎
  二十三番  禰津の次郎      中野の五郎      小諸の太郎次郎
  二十四番  禰津の小次郎     志賀の七郎      笠原の高六
  二十五番  嶋楯の三郎      今堀の三郎      小諸の小太郎
   (以下略)            

庄小太郎頼家(しょう こたろう よりいえ)
庄頼家は庄家長の子で、通称は小太郎。庄氏、本宗家の6代目となる。一の谷の戦いには庄家長や庄一族と参戦した。奮戦したが戦死となる。その後に夫人によって宥荘寺に墓が建てられた。頼家の夫人は妙清禅尼と改名し、建仁2年(1202年)に宥荘寺を建立し菩提を弔ったと云う。小太郎の墓は五輪塔で現在の宥勝寺西北にある。(埼玉県指定文化財) 宥荘寺は「薊山の戦い」(1337年)で焼失し、再建された後は宥勝寺となる。

庄小太郎頼家の五輪塔

宥勝寺山門と奥に本堂

 宥勝寺は本庄市栗崎で早稲田大学本庄高等学院への南側道路より参道に入る。

児玉の四季

inserted by FC2 system